あの日から、もう一度動き出すまで

2024年1月1日。元旦の朝に始まったその日が、あんな終わり方をするなんて夢にも思っていませんでした。

ようやく足を踏み入れた仕事場の周辺は、まるでテレビで見る戦場のような光景でした。建物ごとすべてが焼失し、見渡す限りの焼け野原。仕事場の裏に停めていた愛車はフレームだけの鉄屑になり、金属の塊だったはずの印刷機は、信じられないほど小さく縮んで転がっていました。

父が立ち上げ、ともに歩んできた印刷屋でした。機械や設備はもちろん、長年かけてコツコツと集めてきた郷土資料や大切な道具たちも、すべてが灰になって消えていました。跡形もないその光景を前にしたとき、ただ現実感がなく、呆然と立ち尽くすことしかできませんでした。

正直なところ、もうやれないと思いました。 地方の小さな印刷屋です。もともと大層な利益が出ていたわけでもありません。土地や建物の問題、これからの資金、山積みの課題を前にして、頭の中では「できんやろ」という諦めが瞬間的に浮かんでいました。

それでも踏みとどまることができたのは、自宅が倒壊を免れ、家族が無事だったからです。 七十を超えた父と、七十に近い母を能登に残し、自分だけが金沢や大阪、東京へ出てやり直すことなんて、どうしても考えられませんでした。家族と一緒に生活し、ここで当たり前の日常を送ること。それが当時の自分にとって、そして家族にとっても、一番「正常」で大切なことだったのだと、今振り返ると思います。

そんな中、途方に暮れる私を救ってくれたのは、思いがけない人の繋がりでした。 震災の後、SNSで相互フォローしていただけだった、大阪の有名な活版印刷師の方から突然DMが届きました。被災した私を案じるやり取りの中で、あれよあれよという間に、一台の活版印刷機を無償で譲っていただける話が進んでいったのです。

ただ、まだ置く場所すら決まっていません。引き取りを引き受けてくれた業者の倉庫を長い間お借りして、その印刷機はしばらくそこで眠ることになりました。

その間にも、試練は続きました。 まだ仕事場を建てる前のこと、能登を今度は大雨が襲いました。地震で崩れ、傷だらけになった土地にさらに追い打ちをかける雨は、ある意味で地震よりも性質(たち)が悪く、私たちの心を激しく揺さぶりました。

それでも、あきらめることはしませんでした。

被災してから、約1年と4ヶ月。 ようやく建てることができた新しい仕事場は、決して立派なものではありません。中古のプレハブで造った、ささやかな場所です。それでも、私たちにとっては大きな一歩でした。

倉庫からそのプレハブへ、ようやく印刷機を運び込みました。 長年使われずに眠っていたのか、埃とインクの汚れで死ぬほど汚れていた機械を、一ヶ月近くかけて毎日ひたすら磨き、掃除し続けました。ようやく電気を通し、モーターが動いた瞬間は、ただ「あぁ、ちゃんと動いてよかった」と安堵したのを覚えています。

そして、初めて実際にインクを載せて刷ったとき。 プレスされた紙を手にした瞬間、「あー、これこれ」という感覚が胸に湧き上がりました。指先が、そして体が、その感覚をしっかりと覚えていました。


あの日、すべての物が一瞬で消えました。

長い時間をかけて積み上げてきたものが灰になって初めて、私はあることに気づきました。形あるものは消えるのに、人の温かさだけは不思議と消えなかった。言葉をかけてくれた人の声、物資を届けてくれた手、そして見ず知らずに等しかった人から届いた一台の印刷機。それらはすべて、画面の外から来たものでした。

デジタルは速くて便利です。情報は瞬時に届き、世界中と繋がれる。けれどその速さと引き換えに、私たちはいつの間にか「手触り」や「重さ」のない世界に慣れ始めてもいます。必要な情報だけを受け取り、それ以外は省く。効率的ではあるけれど、そこには何かが欠けている気がしてなりません。

紙を手にしたとき、指先が凹みをなぞったとき、インクの匂いが鼻をかすめたとき、人はそこから何かを感じ取ります。情報の意味だけでなく、作った人の気配を、費やした時間を、その向こう側にある何かを。それはデジタルが意図的に削ぎ落としているものと、おそらく同じものです。

世の中が速くなればなるほど、立ち止まること、触れること、感じることが、生きていく上でより大切になると思っています。あの日すべてを失い、それでも人の温もりと一台の機械によって再び立ち上がれた経験から、そう確信するようになりました。

今日もこの機械を回しながら、そんなことを考えています。


合同会社道端印刷
道端英朗

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